超音波の治療応用の試み
- 順天堂大学グループが悪戦苦闘を重ねていたとほぼ同時期、関西にも超音波の医学的応用に情熱を燃やしている研究者がいた。大阪大学医学部第一外科の岡 益尚である。
- 岡と超音波の出会いは1950年にさかのぼる。太平洋戦争が苛烈になった1943年に大阪帝大を卒業、戦争末期を旧海軍の軍医大尉として過ごし、1946年復員、阪大第一外科に戻った。当時教授は小沢凱夫である。
- 小沢から「雄山平三郎教授(大阪大学音響科学研究所)のところで、新しい痛み治療の機器を開発するらしい。『超音波の医学的応用』というテーマで、文部省科学研究費がついており、臨床側に共同研究を求めてきている。一度見学にいってくるように」との指示があった。実はそれが超音波装置だった。
- 岡が雄山を初めて訪ねたのは、研究所ではなく病気入院中の阪大病院の一室であった。
- 共同研究へ参加申し出に雄山は快く応じ、ベットの上で超音波について懇切丁寧に説明し、膨大な文献を手渡した。そして、研究手順の詳細については、研究室の後輩である吉岡勝哉、加藤金正(ともに音響科学研究所教授)に相談するように助言した。岡が超音波にのめり込んでいくのはこのときからである。
- 岡はかねてから神経痛の研究を続けており、除痛法の開発という方向で超音波の応用を考えた。音響科学研究所の指導の下に制作された水晶板超音波発生装置(治療用に開発されたもの)を用いて動物実験を進め、超音波の温熱作用、疼痛の惹起作用、神経系、循環系、心機能へ及ぼす影響などについて多くのデータを蓄積した。超音波で何が出来るのか、利用の向性を定める検討でもあった。
- 勿論、診療の合間を縫っての研究だから一人では難しい。協力者を探したが、「訳の分からない」(岡)研究に手を染めようとする物好きは誰もいない。途方にくれたが、ようやく一人の若手医局員の協力を得られるようになった。それが横井浩である。
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