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医用画像電子博物館
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梅垣洋一郎先生を偲ぶ

放射線医学総合研究所名誉研究員 飯沼 武(医学物理士)
*ハイパーリンクは、医用画像電子博物館及び梅垣先生著作「梅垣長與賞と囲む会」より

写真11994年頃の 梅垣先生

 このたび、医用画像電子博物館(EMMI: Electronic Museum of Medical Imaging)において御逝去された前委員の梅垣洋一郎先生について記念の記録を残しておこうというお話があり、直弟子の一人である筆者にご指名がありました。誠に光栄であり、喜んでお引き受けしました。
 梅垣先生については多くの方が追悼文をお書きになりましたので、今回はとくに、EMMIとの関連が深い先生のお仕事について、思い出を書き残しておきたいと存じます。
 先生は放射線治療の分野で有名で、とくに重粒子線治療の開発者として知られておりますが、歴史的な資料を整理することでも素晴らしい才能を発揮されました。
 梅垣先生はすべての公職を退かれた後も、ご自宅のある町田市において町会長を勤められるなど、私的な活動を熱心にやられるとともに、日本医学放射線学会の歴史資料の編纂にも熱心に取り組まれました。それがEMMIの発足の基礎となったのであります。
 残念ながら、日本医学放射線学会の歴史の保存に関しては理事長の交代など途中で頓挫してしまいましたが、それがEMMIの引き継がれたことは本当に嬉しいことです。その成果の一部がEMMIに「放射線産業の歴史」という資料として掲載されています。

 もう一つ、先生が残された貴重な資料があります。これは「梅垣洋一郎先生を囲む会」の発行によるもので限定出版であるため、多くの人の目に触れていませんのでご紹介させて頂きます。この資料のタイトルは「梅垣洋一郎と共同研究者たちの軌跡」と言います。
 この資料は1982年(昭和57年)に梅垣先生がすべての公職を退かれた後に書かれたもので、なんと900ページに及ぶ大作です。梅垣先生の医師、研究者としての業績の集大成です。
 その目次を以下に示します。

  • 「梅垣洋一郎と共同研究者たちの軌跡」刊行についての挨拶   P.3-8
    1.業績と会議について P.9-12
    2.分野別業績のまとめ  P.13-54
    3.それぞれの年にやっていたこと  P.55-754
      昭和19年から昭和57年の1年ごとに先生がやられたことのまとめです。
    4.仕事を共にした人たちの横顔  P.755-790
      この中には共同研究者84名の印象がつづられています。
    5.在職した研究施設や所属した学会、諸会議の思い出 P.791-800
    6.添付資料  P.801-872
      先生の経歴、論文発表、学会発表、その他の発表、委員会、著者別索引など
  • 梅垣先生を囲む会会員一覧 P.873
  • あとがき P.874

 まさに、梅垣先生の公的活動の総まとめで、非常に面白いのです。
 先生は医師ではありましたが、パソコンには強く、データの整理は最初からパソコンを使ってやっておられました。これが先生の歴史を大事にされるお考えとマッチしてこのような膨大な資料を残すことができたものと思います。
 上記の中で、最大のものは「3. それぞれの年にやっていたこと」です。700ページに及ぶ労作です。その中で、筆者の独断でいくつかご紹介させて頂くことにします。

写真2 1957年頃の塚本憲甫先生

  最も古い年は、昭和19年で「Radiographic Artの年」というタイトルです。この時は先生が東大医学部学生で放射線科を希望されていて、研究室で大腿骨の超軟X線写真を撮られた話が載っています。敗戦の1年前にこのような美しいX線写真を撮られたことを幸いであったと述べておられます。次は昭和26年の「塚本先生に弟子入りの年」を取り上げる。梅垣先生はこの年、東大から癌研に移られ、塚本先生の放射線科に入られた。 ここで長年の親友であった竹田千里先生や田崎瑛生先生とお会いになり、Oncologistとしての修業をされたと書いておられます。 梅垣先生はここで将来の名医の基礎を作られたのでした。

 その後、先生は千葉大学、信州大学に行かれ、多くのすぐれた研究をなさいましたが、紙数の関係で飛ばさせて頂き、次は昭和37年の「国立がんセンター開院の年」に行きます。
梅垣先生は昭和36年12月に初代総長であった田宮猛雄先生に呼ばれ、放射線部長になるように申し渡されたそうです。開院10周年の記念誌には当時の日本医師会会長、武見太郎先生と病院長、石川七郎先生の思い出の記事が載っていて、お二人とも最年少であった梅垣先生を放射線部長にされたことを絶賛しておられます。その後、昭和39年に「池田首相入院の年」という記事があります。梅垣先生はこの年の9月9日に下咽頭がんのため、国立がんセンターに入院された池田首相の主治医となられました。その当時は一切発表ができなかったようです。しかし、すでに関係者はお亡くなりになったので、先生のメモの一部がこの資料に掲載されています。誠に貴重なものです。先生は国立がんセンターの部長時代に沢山の業績をあげられましたが、全部を述べることはできません。

 最後に、先生が放医研に来られた後のことについて触れさせて頂きます。それは昭和46年から昭和53年の8年間のことであります。昭和46年は「放医研新参の年」、53年は「放医研最後の年」というタイトルになっております。放医研に来られて、先生が最初にやられた大きな仕事は医用サイクロトロンの建設でありました。このサイクロトロンでは速中性子線治療を行うことと、RI生産による診断の研究を行うことを目的としておりました。そして、昭和50年11月28日に最初の治療が開始されました。この話を「サイクロトロン治療元年」として記述されています。また、先生はサイクロトロンによる陽子線治療にも力を入れ、将来の重粒子線治療の基礎を築かれました。そして、昭和53年には放医研を去られることになりました。この年の5月に当時の御園生所長が辞任されたこともあり、先生もご一緒に辞表を出されたそうですが、慰留され、8月にお辞めになりました。先生は放医研では多くの仕事をなされ、業績をたくさん残されましたが、ここに全部を掲載することができないのが残念です。先生のお言葉によりますと、「私にできることはすべてしたという気持ちだったから心残りは全くなかったし、恒元(写真3)、舘野、飯沼井戸の4研究室長は日本はおろか、世界のどこにもひけをとらない立派なスタッフであるから後の心配も全くなかった」と書いておられます。本当に有難いお言葉です。

写真3 恒元 博先生

 放医研をお辞めになった後、先生は悠々自適のご生活に入られたいと希望されておられたが、当時の癌研院長の梶谷 鐶先生からの強い要望があり、癌研の放射線部長として再び勤務されました。その間のことが昭和54−56年の「癌研へ、再度御奉公の年」に詳しく書かれています。先生は2度目の癌研勤務で、癌研の近代化に大きく貢献されました。そして、この間、昭和55年には第7回国際放射線治療コンピュータ会議(ICCR)を主宰されました。これも素晴らしい会議でしたが、詳細は別にかかれておりますので省略します。
 一番後が昭和57年の「鶴川の里から」です。先生は公職を離れ、ご自宅で自由な時間を過ごすことになりました。しかし、この後も非常勤ではありますが、多くの委員会に要望されて参加され、貴重なご意見を述べておられます。EMMI(社団法人 日本画像医療システム工業会 医用画像電子博物館)もその一つであります。 この記録を読むと、先生が本当にすごい方であったことがよくわかります。 最後に、この資料の中の「4.仕事を共にした人たちの横顔」について述べます。

 ここには梅垣先生と仕事で関係のあった84名の方々の印象記が書かれています。これがまた、非常にユニークで面白いのです。全員を紹介することはできませんが、EMMIに関係している3名について梅垣先生の文章の一部を引用します。

  • 牧野純夫:牧野氏は日本人としては際立って背が高い。その背の高さと同じくらい国際感覚が高い人である。日本の放射線機器工業会が今では世界にその製品を送り出すまでになったが、こうなるまでには牧野氏の大変な努力があった。牧野氏は東芝の技監という要職にあるが、東芝というよりは日本の業界の顔といったほうがよい。・・・後略。
  • 稲邑清也:稲邑君と知り合いになったのは昭和42年に国立がんセンター病院に2台目のリニアックが入ることになり、これに伴って治療計画用コンピュータを開発する計画を立てたときである。・・・中略・・・・リニアックの機種選定の時激しい競争になったので、私はおまけの筈の線量計算コンピュータの仕様で話を定めることにして、各社との話をしてみたが、これに本気で対応してくれたのは日本電気だけであった。その日本電気には入社して間もない稲邑君がおられた。稲邑君は何回か話している中に私の考えをよく理解され、必ず実現して見せますと約束された。・・・・後略。
  • 飯沼 武:飯沼 武氏は代表的な医学物理学者である。放射線医学の勉強をしていると、レントゲン教授、キューリー夫人を始め、物理学者が数多く、医者を引張ってここまで進歩させたという感じがする。しかし日本ではそういう物理学者はほとんどなくて、大体は医者の注文で仕事をするか、あるいはだんだんに医者から遠ざかって行くかであった。飯沼 武氏が出現して始めて日本にも医者を引っぱりまわす物理学者が現れたといってもよい。・・・・後略。

 以上、EMMIに関係している3人の横顔を梅垣先生の文章から一部引用させて頂きました。実は、EMMIに深く関与していた舘野之男先生の記事がありません。舘野先生は千葉大学時代から梅垣先生のお弟子さんでしたので、何故なのか判りません。このほか、多くの先生方の面白い横顔が掲載されていますが、省略します。
  本当に有難いお言葉を頂戴しました。先生の人脈の広さがわかります。
  最後に、先生の思い出はいくら書いても足りませんが、先生が天国から我々を見守り、ご指導下さっていると信じ、少しでも放射線医学の発展に尽力したいと思います。

 

追記 掲載しました写真及びリンクオブジェクトは、梅垣先生が2008年度長与賞受賞の際に講演された『癌研特別セミナー2008年度長与賞受賞「がんの放射線診断・治療の研究と重粒子線治療の実現」』より引用しました。

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