中島 茂は1907年(明治40)年生まれ。1930年に日本無線(株)に入社以来、一貫して技術畑を歩き、戦前・戦中は大出力マグネトロン、マイクロ波レーダ航空機用超短波レ-ダなどの開発に携わり、戦後は超音波魚群探知機を世に送り出していた。
順天堂大学田中と日本無線中島の出会い
- 1951年秋、順天堂大田中憲二(1905〜1989)と和賀井敏夫は実吉純一(東京工業大学精密工学研究所所長)の紹介状を携え、東京・三鷹の日本無線に中島を訪ねた。超音波研究の指導と強力を仰ぐためである。
- 中島と田中の出会いについては、中島の回顧録「創意無限」(私家版、1997年、非売品)の中に「・・・昭和25年(1950年)秋、私は突然二人の訪問客を迎えた。名刺を見ると『順天堂大学教授 田中憲二』とある。今一人の方は当時助手の和賀井敏夫先生(現在、同大学名誉教授)であった。
- お話は、魚群探知機を一台売ってほしいとのことであった。私は釣好きの医者もおるものだと感心しながら話を聞いていたが、やがて先生方が魚群探知機を使って体内の癌や腫瘍を発見しようと考えていることが分かった。思いもよらないこの発想に私は驚いた。魚群探知機は数十メートルから数百メートル先の魚群を見つけるものであり、僅かに数ミリから数十ミリメートル先の体内の組織や細胞の変化を識別出来るものではない。取り敢えず魚探をお売りすることはお断りしてお引取り願った。しかし、この医学者たちの構想に私の関心は募るばかりであった。社内で討論検討した上、この研究に積極的に取り組んでみることにした・・・」 (原文のママ)
- 田中たちの念頭にあったのは金属探傷器で、中島の言う魚群探知機とは多少食い違うが、いずれにしても、これによって順天堂大外科グループと日本無線との出会いが生まれ、研究は新たな段階へと移っていくのである。